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セルフケア

今年の頭、沖縄を一人旅していたときに、やちむんの茶碗を買った。

伝統的な焼き物の工房が立ち並ぶやちむん通りを散歩していたとき、何気なく入ったショップに置いてあった、唐草模様が彫られた黒い茶碗が目に入った。伝統的な紋様であるのだろうけれど、どこかモダンな印象を受けるデザインで、「いいな、欲しいな」と、瞬間的にそう感じたのを覚えている。値段にして5000円と、普段の自分だったら絶対に買わない価格帯の食器だったが、これも旅の思い出になればいいと思って購入した。

正直言って、やちむんの茶碗は、自分の食卓では浮いていた。というのも、家には100均で買ったようなプラスチック製の食器類や、一番くじの景品で貰ったようなキャラクターものの食器くらいしかない。自分にとって食器は「料理とテーブルを隔てるだけのもの」という扱いで、盛り付けがどうとか食卓の見栄えがどうとか、そうした概念がそもそも存在していなかったのだ。

そうしたなかでも、やちむんの茶碗だけはいつも凛とした佇まいで白米を載せていて、なんだか申し訳ない気分になってしまった。「この食器に見合う食事って、何だろうな」と考えるようになって、常備菜を作る習慣が生まれた。

小松菜などの葉物のおひたし、にんじんの和風マリネ、かぼちゃの煮付け、ブロッコリーのピクルス……。決して華美ではない、むしろ「実家」感が強すぎるメニューではあるが、副菜を作り置きしておき、主菜は魚か肉を卵を焼いたものを食べるという、ある種のルーティンが自分のなかにできた。

料理をする手間が増えたから大変になったかといえば、そうではない。週末に常備菜をまとめて作っておき、それらを減らしながら、毎日やることとしては主菜を用意するだけ……というルーティンによって、だいぶ食事に関してシンプルに捉えられるようになった。お惣菜や弁当ばかり買っていた頃は「食べたいものがない」と、スーパーを何件もはしごして無駄に疲弊していたが、今は楽だ。それに今の食事内容のほうが、健康にもいいはずだと思う。やちむんの茶碗を買ったというだけで、生活の質が向上した。

なんか、自分ってばセルフケアしているなと、ふと感じた。

自分は、パートナーや友人には健康的な食事をしてもらいたいし、記念日にはすてきなプレゼントをあげてもてなしてあげたいと思う。それなのに、自分自身のこととなるとなぜか疎かにしてしまって、「別に自分しか食べないのだから適当なものでいい」「別に誕生日だからといって欲しいものもないし、いつも通り過ごすのでいい」と、自分のことをずいぶん雑に扱ってきてしまったように思う。他人に対しては絶対にそんなことはしないのに、自分自身に対する扱いは、なかなか酷いものだった気がする。

最初に入った会社で体調を崩し退職し、実家との関係も悪化して、ホームレスになった20代の頃は、とにかく毎日お金がなかった。貧乏生活が体の芯まで染みついているので、生活水準を上げることに今でも抵抗がある。自分のために何か物を買うとき、「そんな贅沢をしていたら、また貧乏生活に戻ったときに苦労するぞ」と、過去の自分が警告をしてくる。しかし、生活水準を上げるのと、生活の質を上げるのは、違うことなのかもしれないと、34歳になってようやく気づいた。

他人に健康的な食事を用意してあげるとき、「これは甘やかしだ。相手をダメにしてしまう」とは思わない。そこに存在するのは「ずっと健康でいてほしい」という切実な祈りだけだ。自分自身に健康的な食事を用意してあげることは、死ぬまで付き合っていく必要のあるこの肉体に対する、誠実な向き合い方の一つだろう。そこを、自分はずっと履き違えていた。

見栄のために身の丈に合わないブランド品や車を買ったり、海外旅行をしまくったり、家賃の高い家に住んだり、そうした行為が一般的には「生活水準を上げる」とされる。気に入った食器を長く使う、その食器に見合うような副菜を作る……これらの行為は、自己尊厳の回復であり、セルフケア、生活の質の向上なのだろう。

警告してくる過去の自分も、敵ではない。昔は今よりも生きていくために必死だったから、過去の自分が生存戦略としてそう反応してしまうことも仕方がない。過去の自分からの警告だって、「もう二度と、あんな生活を味わってほしくない」という気持ちから湧いているものであるし、それはセルフケアと地続きなものだ。だから黙らせる必要はなく、ただ「過去の自分はそう思うのだな」と受け止めてあげるだけでいいのかな、と思う。

by innocentl | 2025-12-18 14:03 | 日常 | Trackback | Comments(0)


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