マウンティング

すっかり一般的になった「マウンティング」という言葉。
恋人の有無や容姿、月収や交友関係などさまざまなことにおいて「自分の方が上」だということを誇示したい人がする、意識的・無意識的な格付け(や、それに準ずる言動)を意味している。

「クリスマス一人なんてかわいそうだね。私だったら考えられない」とでもSNSで発言すれば、「あいつマウンティングうぜぇな。彼氏がいるってことがそんなに偉いんですか」とヘイトを生む。

自分自身、マウンティングをかけてくる人や好戦的な人は苦手だ。
そういう人たちは良くも悪くも野性的というか、動物同士の力関係をはかる行為の「マウンティング」という名が示すように、たいていいつもギラギラと餓えた目つきをしているので怖いなと感じている。
向こうも向こうで、自分のようにダウナーでカースト外の人間はハナから眼中にないようで、面と向かってマウンティングをかけられたことは少ないのだけれども、SNSには全方位にマウンティングをかけているクソババア(注:ゲイの言う『ババア』はゲイの男性のこと)が多くいる。

そういう人たちは「自分の考える基準の中で」少しでも人より優位に立っていることに喜びを見出す宗教を信仰しているだけなので、そっとしておくしかないと思う。
学歴が一番大事だと考えている人は、高卒で年800万稼ぐ人よりも院卒のニートの方が素晴らしいと考えているだろうし、恋人がいることが大事なことと考えている人は3ヶ月単位で出会いと別れを繰り返している人の方が、仕事や友人関係に重きを置いてあえて独り身でいる人よりも素晴らしいと考えているだろう。
僕も今までの人生観のバイアスが邪魔をしてまるで「高卒の高所得者」や「あえて独り身を貫く人」の方が尊いかのような書き方をしてしまったが、これこそ宗教なのでどちらが良いか悪いかなどはない。外野がとやかく言ったり、是正してやろうと躍起になる問題ではない。彼らはそういう信仰なのだ、というだけだ。

そんな話はさておき、世の中はマウンティングに過剰になりすぎていると思う。
「ボーナス出た」と誰かがつぶやけば、「ボーナス出ない人だっているのに自慢かよ」とヘイトを生む。
「クリスマスのために食材買ってきた」と誰かがつぶやけば、「恋人いますアピールかよ」とヘイトを生む。

あえてマウンティングをかける人はそりゃあ思慮が足りない気もしないでもないが、あくまで日常会話の一つとして発言したことが揚げ足取りのように「マウンティング」扱いされるのは言葉狩りなんじゃないかとも思う。
人は全員違う人生を生きていて立場も違うので、その人の「日常」が、他の誰かにとってはどうあがいても手に入らない羨望の対象であるかもしれない。だが、それは誰だって一緒だと思う。
自分だって「低所得のフリーランスで毎日カツカツだよ」と思って生活しているけれど、会社のしがらみに悩む人からは「でも嫌なクライアントの仕事は断れるんでしょ。羨ましい」となるかもしれない。
逆に自分は会社員の安定した給与が今となっては羨ましいなと思うのだけれども。

余裕がないときはギスギスすると思う。
自分だって恋人がいないときにSNSでデートの報告をしてくる人を僻んでしまった時期もあるし、端的に「こいつムカつく奴だな」と思った人だっている。
それはそれで仕方のないことだと思うし、仲間内で愚痴や悪口を言い合うことになるのも仕方ないと思う。
でも、SNSで攻撃をするならせめて、その人は客観的に見て「『意識的に』『攻撃として』マウンティングをしてきているのか」を考えてから反応した方が、きっと他人から見られたときに頭が悪い人にはうつらないと思う。
人を攻撃する目的でマウンティングをかけているのならば反撃される可能性もなきにしもあらずだが、日常会話として自分の立場を語っているだけの人を攻撃するのは、自分の価値を下げて人を遠ざけるだけだと思った。

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# by innocentl | 2016-12-22 17:44 | 日常 | Trackback | Comments(0)

幸せの基準

「誰かの役に立ちたい」「誰かのために何かできることが幸せ」というのはとても美しいようだけれど、幸せの基準を他人にフォーカスしてしまうと確実に崩壊する。
どんなに身を粉にして尽くしても、結果を決めるのは他人である以上骨折り損で終わってしまうことだってある。
そうすると「こんなにしてやったのに」と憤ったり、悲しくなったり、自分が打ちのめされてしまう。

自分が心身ともに健康的に生きながらえるためには、幸せの基準は自分自身にフォーカスしてあげないといけないと思う。
というのも、ここ数年で自分は「自分を甘やかしてあげられるのは自分しかいないしな」と思うようにしていて、なるべく本能に忠実に生きようと心掛けている。
どれだけ努力したところで前の会社では評価もされず、今までさんざん「いい子」で振る舞ってやった家族にも退職をきっかけに邪険に扱われるようになり、「人のために生きるのなんて何もいいことねぇな」と思ってしまったからだ。
なまじ優等生として社会に出るまで通ってきてしまったので、「人からの期待に応えること」が自分の喜びであると内面化してしまったのだ。

自分が本当にやりたいことをやったり、本当に好きな人と一緒にいたりすると、文句を言われてきた。
その都度「これはいけないことなのだ。いけないことをしてしまって周囲をがっかりさせてしまったかもしれない」と自己叱責をしたものだが、人なんて何もしていなくても嫌われることもあれば、どんなに傍若無人に振る舞っても見捨てないでいてくれる人もいるもの。
つまり人からの評価なんて気にするだけ無駄で、だったらやりたいことを遠慮なく選ぶべきなのだ。

天涯孤独になったからこそ、日本社会にありがちな「世間様とウチ」のような呪縛からは解き放たれ、そこそこ自由に生活することができている。
かといって「お前らも家族を捨ててやりたいことをやってみろ」と言うわけではない。
会社勤めをしていればそこでの人間関係のしがらみもあるだろうし、どんなに仲のいい家族でもすれ違うことはあるだろう。
切っても切れない関係がある中で、「人のために生きる」のに固執するのを止めた方が生きやすくなるよ、というだけの話だ。

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# by innocentl | 2016-12-22 17:06 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ホモランドセルに思う

先日、とあるテレビ番組で「ホモランドセル」が紹介された。
ホモランドセルとはゲイの間で流行している(と言われている)、THE NORTH FACE製の四角いシルエットが特徴的なバックパックのことだ。
数年前からなぜかゲイの間で流行しているので、「ホモのランドセルみたいなものなんじゃない」という自虐的ともとれる呼称が一部でされていた。

番組では「ゲイの間で最近流行しているアイテム」という表現で紹介されたそうだ。
それに対して「ゲイに限らず使われているアイテムなので、こんな放送をしたら明日学校でいじめられてしまう中高生も出てくるんじゃないか」「メディアでのアウティング事例なのではないか」とツイッターでは一部ユーザーが騒いでいたのを拝見した。

ここではこの際アウティングがどうとかメディアリテラシーがどうとかそういった話は置いておいて、個人的な「ホモランドセル」に対する思いを書こうと思う。

一番最初にNORTH FACEのカバンを見かけたときは、アウトドアファッションが好きな人たちが身に着けていたように思う。
ほどなくしてゲイの中でも身に着ける人が増えてきたと思うが、今から7~8年前くらいだとやはりアウトドアファッションや若干スケートパンクっぽい、ストリートなファッションをしている人が身に着けだしていたような気がする。
アウトドアな文脈でのファッションはさておき、ストリートなテイストにわりと大き目なバックパックを背負うことは「ハズし」になり、活発な印象ややんちゃなイメージを演出するために使われていたように思う。

ほどなくすると猫も杓子もこのバックパックを身に着けるようになるようになったが、流行すると「その合わせ方間違ってんじゃね?」というような人たちも増えてきた。
アイテムが先行してしまっているので全身のファッションに気を使うわけでもなく、「サイズ感のおかしいシャツに、流行ではない丈のパンツにバックパックを合わせました」というような格好というか、語弊を恐れずに言えば「ファッションに何の興味もないオタク気質のゲイがとりあえず『アイテムが』かわいいと思ってNORTH FACE買っちゃいました」的な人たちが増えてきたように思う。
もともとガチなアウトドアファッション以外に合わせるためにはハズしとして使われてきたアイテムなので、全身モサいところにそれをやってしまうと「遠足の小学生かな?」というような出で立ちになってしまう。
全身ハズしていたらそれはダサい。

別に自分もファッションに気を使うほうではないが、年相応であることやサイズ感だけは身だしなみとして意識するようにしているので、そういった人たちを見ると「なんだかなぁ」と思ってしまう。
パサパサの金髪にドン・キホーテで買ったような服を着ているけれど、カバンだけはシャネルのヤンキー女のようだな、と思ってしまう。

アイテムそのものに惹かれて「いい!」と思って購入に至ることはもちろん誰にだってあると思うけれど、最低限の身だしなみをしてから楽しむほうがもっと本人もアイテムも魅力的に見えるだろうにもったいないな、とは思う。

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# by innocentl | 2016-12-10 10:44 | 日常 | Trackback | Comments(0)

人には言えない話

SNSやリアルでは人に言えない話。
彼氏の作り方がわからない、という話。

高校生の頃からなんとなく縁に恵まれて彼氏という存在が自然とできていたので、出会い系アプリを使うとか、飲み屋で出会うとか、彼氏を「作る」方法がよくわからない。

クラブで出会っても遊びで終わるし、どこで彼氏というのは見つけて付き合うまで関係を発展させるんだろうか。
ゲイ向けの出会い系アプリも一応登録してはいるが、実際にやり取りをして「じゃあ会いましょう」となったことがない。
なんとなく画像を登録して、「よかったら会いませんか」というメッセージが来て、「いつか機会があれば」で終わってしまう。
もちろん今は彼氏がいるので利用していないが、フリーだった時もアプリ経由で人と会うというのはなく、実際のところ周りのみんなはどれだけのリアリティを持ってアプリというものを使っているのか。

情報弱者のまま25歳になってしまったなぁと感じる。
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# by innocentl | 2016-11-30 22:31 | Trackback | Comments(0)

The gay élite

レスリーキーが「The gay élite」と題した写真を発表した。
パリッとしたスーツに身を包んだ男性たちがそれぞれの所属する企業(グーグルや電通のような大企業)の名前を出して写っている。

「今までゲイであるということを隠し、あたかもゲイでないように取り繕ってきた人たちの中にもセクシャルマイノリティーは存在する(しかも、日本人なら誰でも知ってるあの有名企業の中に!)」という意図があって公開されたものだそうだが、これがなかなか賛否両論あるようだ。

もちろんエリートという言葉が持つ独特のニュアンスを汲み取れずに条件反射的に唾を吐きかけてる人もいるけれど、もう少し踏み込んで理解しようとしてみても「うーん……」と思ってしまう要素がある。

仰る通り、今までゲイでないように取り繕ってきた人たちの中にもセクシャルマイノリティーは存在するんだよというメッセージ性があるということは大いに意義があることだと思う。
やりたいことや表現したいこと自体は理解できるのだけれども、それは別に大企業とかエリートに限ったことではないと思うし、今回のキャンペーンによって「やっぱりゲイの人たちってエリートだったり、アートの才能があったり、何か違うのね!」と思われてしまったら意味のないことなのではないだろうか。

ゲイだろうとビアンだろうと普通の人がほとんどなのだということは何度も書いてきた。
メディアが打ち出すパブリックイメージとは反して「一般人の中にもゲイはいるんだよ」ということを伝えたくて僕はおよそ10年前にこのブログを開設したし、初期から徹底して「普通のゲイ」ですとアピールしている。

まぁ普通といっても大学出て企業勤めしたけれど、ドロップアウトしてフリーランスやってというかなり泥臭い経歴であるけれど。
日雇いや性風俗で働いて日々生きるのに精一杯な貧困ゲイだっているし、無職だっているし、「あなたの身の回りにも存在する人たちなんですよ」というメッセージを伝えるにはもう少しどうにかならなかったのだろうか、という印象がある。

まだ写真一枚のビジュアルイメージしか出していない企画なので外野があれこれ言うのも野暮なのかも知れないけれど、インタビューやその後の企画で少しでも何かアクションがあれば望ましいのにな、と泥臭い人生を生きている普通のゲイは思うのだった。

ただ、こうして批判も起こることも見越してのことなんだろう。
まずは注目を集めてから……ということなのだろうか。
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# by innocentl | 2016-10-25 10:23 | 真面目な話 | Trackback | Comments(0)