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トラブル

仕事でちょっとしたトラブルがあった。
自分は実際現場にいたわけではないので人づてに聞いた話になってしまうが、要はインタビュー記事の取材でインタビュイーが不機嫌になりまともな取材ができなかったというケースだ。

実際に現場にいた人の分析によると、インタビュイーが我々の媒体の規模などを正確に把握していなかったためにギャップがあったそうで、それが今回のトラブルの原因かもしれないということであった。
確かに第一印象でつまづいてしまったら、基本的に一期一会であるインタビューがうまくいく可能性は低くなってしまうのだろう。
ただ、こちらとしては媒体のURLも明かしたうえでサンプル記事を提示し、「こんな感じのイメージですよ」という話はオファーの段階でしている。
なので「しっかりと確認しないまま仕事を受けた先方が悪い」「先方がただ気難しい人だっただけ」という話で終わらせることもできるのだが、そういう考えを少しだけ外して自分なりに分析をしてみたい。

まず今回のインタビュー記事はサンプルこそあるものの、実際に記事として対外的には発表しておらず、まだ内々の企画であった。
そのために「掲載されるときにはこうなる」という十分な判断材料を提示できないままインタビューのオファーをしてしまったことになる。
実際に連載されている文章を確認できず、内々の企画であるということで「(よく知らないメディアの)実験的な試みの記事の踏み台にされている」と先方が感じてしまう可能性も考慮すべきだったのかもしれない。

そして二つ目に、先方がそこそこ名の知れた人だったことがもう一つの原因になる。
今現在自分が記事を書く際などは、まずイベントやパーティ会場などで「今後取材する可能性がありそうな人、店」に名刺を渡し、自分がどんな媒体でどんな記事を書いているかを説明しつつ挨拶を済ませる。
そのうえで「今後取材させていただくこともあると思うのでよろしく」といった話をする。
実際、記事化できそうな出来事が彼らに合った場合はすかさず連絡を取り、記事化する。

挨拶が既に済んでいる場合ならいいが、いきなりアポを取って取材をしなければならない時も「初めまして」から始まり、「あなたのしていることは素晴らしいので、よりたくさんの方に知ってもらえるためのお手伝いをさせてください」というスタンスで取材のアポを取り付ける。
つまり、最初に軽い取材(なるべく広く告知することによって取材対象がいい気分になってもらえるような話題)をして記事執筆をし、関係性を構築する。
嫌な言い方だが要は「恩を売る」わけで、「なんだ、意外と面倒くさくないぞ」「記事が出てから新しい客が増えたぞ」など、媒体に対する不信感などを一番最初に取っ払ってもらう。
(全国的には)無名な人を、ちょっとした有名人に仕立て上げるフェーズがある。
ここの「恩を売る」段階を踏んでいれば、今まで知り合ってきた人たちは快くインタビュー記事の話も承諾してくれていたと思う。

ところが今回のインタビュイーは既に地位を確立している有名人で、自分たちの今までに広げている人脈網からは全く別の文脈に存在する人物だった。
客観的に言えば「名の知れていないメディアが、唐突に有名人にインタビュー記事のオファーをした」ということになる。
となると地道にこつこつ信頼関係を築いてきた今の自分たちが持つ取材対象者たちとは違い、「なんかよくわかんない媒体が売名行為に自分を利用しようとしているんじゃないか」と不審に思われる可能性は十分にあったと思う。
となると最初の時点でインタビュイーが想定していた媒体と我々のそれは違うとなると、一気に不信感を煽ることになってしまう。
結果として心を開いてくれないまま、インタビューがうまくいかなかったことになる。

対策として、何をするべきだったのか。
結果論になってしまうが、まずは自分たちの持つ人脈網の中からインタビュー記事を執筆して実績を作るべきだった。
「これと同じものをあなたにもやってもらいたいです」とはっきり提示できれば、気に入られなかったとしてもオファーの段階で断ってもらえた。

そして記事化を急がずにまずは信頼関係を築くべきだった。
今回のインタビュイーのインタビュー記事を出したい、と決定した時点で、まずは軽いジャブを打つべきだった。
彼が行うイベントなり事業なり、自分たちの媒体で紹介できるものがあればまずそれを取り上げて、記事化の実績を作り我々の媒体への抵抗感を無くし、コンテンツを知ってもらうべきだった。

しかし、自分は保守的すぎる。
手堅いと言えば聞こえはいいがスピード感は劣るため、手早く結果を求められる場合においては自分のやり方はかなりもどかしいと思う。
今回のインタビューも現に成功していればメディアにとって爆発的な原動力になったと思うし、最初に大きく成功すればその後は滑るようにガンガン記事出しができるだけの企画になっていたと思う。
時にはリスクを取ってでも行動をした方が良い結果に結びつくことがある。

どのやり方が正しいなんて存在しない。
今回はタイミングが悪かっただけかもしれないし、先方が何をしても響かない偏屈な人だっただけかもしれない。
別のやり方をしていれば成功していたのかもしれないという保証はないので、全て結果論だ。
見極めるのは難しいし、人と人とのことなので一生「見極め」なんてできないのかもしれない。
ただ、もっともらしく反省や分析をするとしたら上記のような内容になるかな、といっただけの話である。

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by innocentl | 2016-03-27 00:12 | 真面目な話 | Trackback | Comments(0)

文章が読めなくなったときの話

ストレスで文が読めなくなったことがあった。

仕事関係で使う資料のデータを何度読んでも頭に入ってこず、同じ文を繰り返し読んでも全く理解できなかった。
理解できないことが理解できなかった。

小説を読んでみても、同じページでずっと立ち止まってしまって、無理にページをめくって話を読み進めてみても本当に「文字をなぞっているだけ」のような状態で、全く状況や場面を想像して描くことができなかった。
文字は読めるのだが、意味を理解しようと思ってもセンテンス単位でぶつ切りになって、次の文とつながらないというか、文字を目で追いかけていると読み終わった個所がどんどん消しゴムで消されてしまっていくような、不思議な感覚だった。
「馬鹿になってしまった」と、焦った。

文字は読めるのだが、読めるというのも「文字を見て発話や発音する状態には持っていけるのだが、意味を理解することができない」状態だった。
僕は大学で言語学を専攻してきたこともあり、発音記号が読めるのでこう表現するが、知らない言語の発音記号を読んでいるようなものだった。
「発音記号の読み取りはできるため、書かれている文字がどんな音なのかはわかるしそれを発音できるのだが、全く知らない言語なので意味は分からない」といった具合だ。

もっとわかりやすく言うと、小学校に上がりたての小学1年生が「すべてひらがなで書かれた平家物語」を音読させられているようなものを想像してもらいたい。
ひらがなで書かれているので発音することはできるけれども、古文の知識がない状態で読む「平家物語」は意味を到底理解できない、という状態だ。

仕事で使う資料や一般的な書店に流通している大衆小説なので、成人している僕が「全く意味が分からない」という状態に陥るわけがない。
知らない単語が多い、とか、そういったレベルではなく、小学生1年生にとっての「平家物語」のようなレベルで理解が及ばなかったのだ。
文法の知識さえ崩壊し、文と文、助詞や動詞の関係性レベルで理解ができなかった。
「頭がおかしくなってしまった」と、焦った。

しばらくは本が読めなかった。
大好きな金原ひとみの小説を数冊買ったが、いつもなら没頭して1日で1冊は確実に読み切れるのに、集中力が続かないし文章の理解ができないので1日にせいぜい10ページ読めればいい、という時期もあった。
金原ひとみの文は悪文もあるが、そんなに難解な言葉遣いや単語を使っている作品ではないので、感覚的にすっと入ってくるものだ。
「好きな作家の本なのに、読めない」というのは衝撃だった。


先日、とある新書を1日で読み切った。
内容も思い出せる。
「あの状態はいつ抜け出すことができたのだろうか」と、今更ながら不思議に思った。
文を読めなくなる、というのはストレスのバロメーターだったのだと思う。

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by innocentl | 2016-03-10 09:54 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ぬるい生活

退職してからの日常はこんな感じだ。

朝は10時ごろ起床。
起きたら洗濯や洗い物をして頭と身体を覚醒させる。

それが終わったら原稿を書くなどの仕事に取り掛かる。
取材があれば出かけるし、なんとなく家ではちょっと…という気分のときはオフィスや図書館へ出かける。
時間があればジムに行く日もある。

原稿を仕上げたら、その日の活動はもう終わり。
ダブルワークのアルバイトがあればバイトに出かけ、そうでなければ散歩がてら夕食の買い物へ出かけたり、パチンコに行ったりする。
帰ってきてから夕食を作り、同居人が帰ってきたら一緒に食事をし、風呂に入って寝る準備をする。

ぬるい生活だ。

他にも役所やハローワークで手続きがあれば出かけるし、一日何の予定も入れずに突発的に海や土手に出かけたり、図書館で3冊小説を読んだり、3時間くらいぶらぶらと歩き回る日もある。
この生活をもっと社会性ある大人としてのものに近づける必要があるし、もう少し就活に力を入れなければと思っているところだ。

仕事をしていた時の生活はどんな風だっただろうか。
7時45分に起きて、8時15分の電車に乗れるよう行動。
8時30分にはデスクに座っていて、手の付けやすい仕事から片付け、そのまま定時過ぎまでダラダラと終わらない仕事に向かい合っていた。
定時を2時間ほど過ぎて帰宅準備をし、自炊する気力がないので必然的に毎回同じようなコンビニ弁当を買って帰り、シャワーを浴びて、なんとなくマツコ・デラックスが出てるテレビ番組をつけながら布団にもぐっていた。
PCやスマホをいじったりする時もあった。
そうして12時頃には眠って、また次の日起きて仕事に行く、といったサイクルだったような気がする。

ぬるいけど、今のほうが自由度が高い分、刺激があるのかもしれない。
それが良いか悪かと言ったら、良くはないけれども。
「みんなちゃんと働いててえらいなぁ」と、アホみたいに眺めているアウトサイダーになってしまった。
この生活はいつまで続けられるだろう。
終わらせたいのか、終わらせたくないのか、自分にもよくわからない。

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by innocentl | 2016-03-08 21:05 | 日常 | Trackback | Comments(2)

浮草人生

食いつなぐためにアルバイトをしている。
フリーランスを名乗り原稿を書く仕事もしている。
なんとなくハローワークに行ったりもして、再就職ということも視野に入れて活動をしている。

一応雇用保険(失業給付)が下りる範囲内での労働はしているが、マインドとしては確実に無職に近いものだ。
貧乏フリーランスとも、フリーターとも、モラトリアムとも、求職者とも言えるが、自分の今の社会的な立ち位置とは何だろう。

「ゆくゆくはフリーで食っていけるように活動してます。まだ食えないですけど」
「なんとなくフリーターっていう身分に落ち着いちゃったのかな」
「失業給付がまだ下りてないからもう少しだけゆっくりしようかと思って」
「やっぱこのままじゃいけないから、企業に再就職かな。仕事探し中」

どれも正解だけど、どれも外れな気がする。
上記全ての人格が僕の頭の中に入る。
それを全てひっくるめて「モラトリアム」というものなのかもしれないが、果たしてそんな生温い状況のまま生きていていいのだろうか。
今はなんとか命は繋げているけれども、この生活というのは例えば何か病気をしたり、家主の気が変わったりすればあっけなく崩壊する脆いものだ。

今住む場所を失えば、今度こそ確実に路頭に迷う。
そういう打算的な考えだけでつながっている関係でもないと思いたいのだが、現実問題として、だ。
家族との縁も事切れたし、20数年一緒に暮らしてきたものなのに案外最後はあっけないものなのだなと思ったりもした。
家族でさえそうなのだから、血がつながっていない人間との関係などなおさらだろう。

ようやく重い腰を上げて住民票を今の住所に移す。
戸籍も分籍して、天涯孤独になる。
浮草のような人生だ。

自分はいま社会のどこに属しているのだろうとか、自分という人間から発せられるメッセージを受け取っている人がどれほどいるのだろうとか、あっさりどこかで死んだらどれだけの人がリアルな実感を持って自分の死を受け入れてくれるのだろうかとか、浮草人生を歩んでいるととにかく自己の存在に確固とした意義を見出せない。
リアリティがないとも言うのかもしれない。

自分の人生なのだから自分で意義を見出せばいい、感傷に浸っている暇があれば行動を起こせばいい。
理解はしている。
次のステップに進まなければいけないのに、モラトリアムだ。

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by innocentl | 2016-03-08 20:32 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ともだちづくり

積極的にゲイの友人作りをしなくなってどれほど経っただろうか。
今ではSNSで常に情報交換できるし、気づけば知り合いからリプライやメッセージが届くし、「よくよく考えたら最後に友人と遊びらしい遊びに出かけたのって結構前だよな」というような状況でもさほど寂しさを感じなくなった。

ともだちづくりは難しい。
飲み屋やイベント遊びなどの夜遊びをすれば友人もできやすいよ、というアドバイスは割と真理なのだとは思うけれども、自分みたく「飲み屋はそんなに行かないし、夜遊びっていったら『クラブ遊び』みたいな」といった層はそんなにコミュニティを広げられない気がする。
まあ夜、クラブといったシチュエーションで一緒に盛り上がるだけの知り合いや顔見知りが増えたところで「じゃあ今度みんなで映画か食事でも行きましょうか」という話には繋がりづらい。
暗く、爆音が流れて、みんな酒(か、それ以外の何か)でラリっているからこそ生まれる連帯感なだけで、狭いフロアでぎゃあぎゃあ笑いあっている連れに「昼間はどんな仕事をしているのだろうか」「この人は夜遊び以外にどんな人たちとどんなことをして遊んだりしているのだろうか」などと変に深読みすること自体が野暮なのだろう。
要は「連れ」ができるだけで、友達はできづらいと思う。
元々の友達とクラブに行くのと、クラブで知り合ってつるむようになるとでは雲泥の差だ。
クラブで知り合った人とはいいとこセフレ止まりだろうし、クラブ経由で昼間も遊べるようになった人たちというのはレズビアンの子しかいない。
ゲイ同士のクラブでの出会いなど、服を着た発展場のようなものなのかもしれない。

高校生の頃はそれこそLGBT支援NPO主催の「ともだちづくりイベント」などにも参加してみたが、どうも温度差が違うというか品行方正過ぎるというか、なんだかなぁといった感じであった。
この手のイベントは要は婚活パーティの友達版みたいなもので、会場に行くとプロフィールカードを書かされ胸に着け、自己紹介タイムや軽食タイム、ゲームタイムなどを通じて親睦を深め、仲良くなれそうだと感じた相手と連絡先を交換してその後の関係につなげる、といったものだ。
悪くはないのだけれども、連絡先を好感した参加者から「この間の『ともだちづくりイベント』のあと、成人してたメンバーでゲイバーに飲みに行ったんだけど、酔っぱらってキスとかしてたんだよ。俺、そういうの許せない。ゲイってそういうところが嫌だ」といった内容のメールが送られてきたことがあり辟易した。
彼一人だけの話ではなく、この手のイベントに参加する人は潔癖で、「ゲイのゲイ嫌い」が多いのだ。
ある程度夜遊びとか、軽い関係とか、軽いセックスとか、そういう「そこそこ健全なゲイ」が良しとしないまでも経験はしているといったような行為全てを批判し、「俺はそういう人間じゃない。ゲイがみんなこんな風だと思われたら困る」という主張をするのだ。

かといってゲイ専用の出会いアプリはセックスや恋愛が前面に出すぎているので、友人作りにはやはり向かない気がする。
お見合いみたいなものだから、全く知らない人とセックスや恋愛ごっこ(後に本物の恋愛になるなら尚良し)をするには最適なツールだと思うけれど、一対一じゃ友人作りの土台としては貧弱だし、時間がかかりすぎる。

ある種健全なゲイと健全な出会いをするには、やはりどこか行きつけのバーを作るやら、趣味を通じたサークル活動を始めるやらが一番手っ取り早いのかもしれない。
時点でツイッターなどのSNSでじわじわとネットで仲良くなってからリアルでも遊ぶ人間を作るとか。
ネットで誰とでも繋がれる時代というのは、結局誰ともつながれないのと同じで、人と人との繋がりというのはやはり現実世界で「ある特定の目的を達成するために集まった集団の中で出会う」ことが一番確実で、強固なものなのかもしれない。
バーなら「飲む、誰かと話す」という目的を持つものが集まるし、サークルなら「活動する」ことを目的とした集団が集まるし。


あと、中途半端にモテる人は一番友達を作りにくいというのも真理だと思う。
容姿が上位層だったら上位層だけでつるめばいいし、容姿を武器にできないならそもそも性愛が発生する前段階で人との関わりを増やせるし、中途半端が一番苦だ。
なまじ容姿がそこそこのせいで、友人のつもりで接していた者から好意を抱かれ、「そんなつもりじゃなかった」と伝えれば人が離れていく。
かといって思いっきり高飛車になれるほどの上位層の容姿ではないので、お高く留まって似たようなレベルの者同士でコミュニティを完結させられるほどの力量もなく。
「そこそこ」の者同士は「そこそこ」ゆえに互いの抱える膨大な量の人間関係が複雑で、なかなかすっきりと友人関係に収まれない。

というのも、考えすぎだとは思うけれども。

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by innocentl | 2016-03-07 16:32 | 日常 | Trackback | Comments(0)

高橋歩という人

愛しあおう。旅にでよう。

高橋 歩 /A‐Works

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LOVE&FREE―世界の路上に落ちていた言葉

高橋 歩 /サンクチュアリ出版

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ふと、高橋歩は今現在何をして生きているのだろうと思った。
高校生の頃、彼の書籍をのめり込むように買い集め、何遍も読み返していた。
ネットを検索すると、相変わらず彼は彼らしく生きているようで、どこかで安心し、どこかで嫉妬した。

始めて彼の書籍を見つけたのは高校生の頃、学校からの帰り道にあった本屋でのことだった。
最初は表紙が写真集のようで印象的に感じ、ぱらぱらと中身を見ていると世界中で撮ったという人々や景色の写真に目を奪われた。

高校が楽しくなかった自分にとって、高橋歩の本に出てくる写真はどれも輝いて見えた。
世界は広い、という当たり前すぎる事実を書籍を通じて感じた。
写真だけで本を購入し、家に帰ってからじっくりと読んでみた。

高橋歩という人物は滅茶苦茶だった。
大学を中退してバーを経営し、その後無職になる。
今度は「自伝を出したい」という理由だけで出版社を設立し、その後また無職になる。
世界一周の旅に出て、世界中の人々の写真を撮り、その写真と地元の人から聞いたであろう格言を結び付けた本をいくつも出版して有名になる。
その後もバーや飲食店、フリースクール事業などを立ち上げては飄々と暮らしている(ように見える)人物だった。

借金も3000万円以上抱えた時期もあったという。
高校で燻っていた自分にとって、ここまで行動力のある人というのはある種のファンタジーのように感じられ、映画の主人公に対する憧れのような気持ちを彼に抱き続けていた。

彼のようには生きられないと思うが、今でも心のどこかで「でも高橋歩のように人生を生きている人だっているんだ」と拠り所にしている部分はあるかもしれない。
一度躓いたからって燻っている自分がやはり馬鹿らしくなる。

自分は常に最悪のケースを想定して、比較的安全な道ばかり選んできた。
その選択は間違いではないのかもしれないが、リスクを取ることを避けてきたために、想定外の状況に陥ると冷静さを少し失ってしまう部分があるのかもしれない。
何をやったって生きていけるのだから、一番良くないのはリスクを取ることを恐れて何も行動しないことなのかもしれない。

高橋歩という人物は、やっぱりファンタジーだ。
けれども、「行動を起こすことに意味がある」ことは普遍的なものであると思うし、彼自身が体現している。
自分は彼のようには生きられないかもしれないが、彼の主張する、体現する精神はどこかで取り込んで生きていきたいと思う。

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by innocentl | 2016-03-01 14:55 | 日常 | Trackback | Comments(0)