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人間失格(フィクション)

窓から見下ろす公園には外国人の団体観光客がぞろぞろと列をなして歩いていて、なんだか少し前にテレビで見たことがある、白血球が雑菌を飲み込んでいく様子の映像を彷彿とさせた。
外の気温は31度を超えているとPCの天気予報アプリが表示している。
これから1週間、気温は30度を下回ることがないという。

室内とはいえ、窓際の席は太陽光が直に当たってじっとりとした汗がべたついて不愉快だし、化粧も浮いてきてしまっている。
予約が入ったらまずはシャワーを浴びないと。

ていうか、そろそろ辞めよう。
そう、ふと思った。

それまで勤めていた会社が突然なくなると知らされたのは去年の秋のことで、初めてそれを聞かされた時はあまりにも唐突すぎて、「はあ」というバカみたいな単語一つが喉から漏れ出しただけだった。
あれよあれよという間に事業所は畳まれてしまい、会社がなくなることを知らされてから実質3週間程度しか経っていなかったと記憶している。

失業してから3ヶ月間は雇用保険、つまり失業給付が月に12万円ほど出ていたので、しばらくの間はゆっくりしようと思い就職活動もろくに行わなかった。
就職活動を行っているという実績がなければ雇用保険を打ち切られるため、ハローワークが主催している「第二新卒女子のための面接講座」だの「合同企業説明会・女性が働きやすい職場特集」だのに参加してはいたが、どれもこれも説明を聞いても上の空で(もちろん顔には出さない程度の演技力はある)、参加した証のハンコさえ貰えば頭の中から全てのことが消え去ってしまっていた。

今思えば日々の激務から精神的な何かを摩耗して、会社がつぶれた瞬間に燃え尽き症候群のようなものを発症してしまったのだと思う。
ここ半年生理不順も続いていたし、不眠気味だったし、軽く鬱も入っていたと思う。
お笑いの番組を見て「はは」と軽く笑ったら、なぜだか堰を切ったかのように、泣きたくないのに涙が出てきたこともあった。
なんだか全てのことがどうでもよかった、というのは言い過ぎだけれども、少なくとも次の就職をリアリティをもって考えるのには無意識のうちに体が拒否反応を示していた。

やっとの思いで心療内科に通っても、出される薬は一時的な精神安定剤のデパスやソラナックスだけで、「仕事ができているうちはまだそこまで酷くないから」という医師の言葉がさらに私を絶望に追いやった。
いやいやいや、先生、私もうずっと生理来てないし、3時間以上まとめて睡眠取れたの去年の話だし、体重だって大学時代に比べて6キロは減ってるんですけれど。そりゃあなんとか仕事には行けているけれど帰ればすぐに布団に入っちゃって、ていうかそもそも帰れない日も多いんだけど、そんな一時的に不安感を紛らわすだけのお薬だけじゃ私の精神、っていうか脳っていうか、治せないんじゃないですかね。カウンセリングとか、あ、別料金か。せめてもう少し私の話聞いてくださいよ、ね、先生。

結局私はその精神安定剤とやらを、やたら大量に処方された。
「生理が来なくて」「思考力が鈍った気がして」「文字が読みづらい」「眠れない」「あんまり食事が取れない」そんな私の悲鳴一つ一つに先生はキリスト教徒的な微笑をたたえながら「では、ソラナックスを」「デパスを」「ハルシオンを」「マイスリーを」「ルネスタを」と、何やら毎週薬の組み合わせだけを変えて処方するのだった。
毎回クリニックに行く前は「やっぱりもっと根本的なことから治療しましょう」と言ってもらえることを期待して行くのだけれども、結局睡眠導入剤の種類が微妙に変わるだけで、通う意味すら見いだせず、かと言って通院を止めるわけにもいかずという状態が続いていた。

仕事を辞めてから、いや、職場が消滅してからは睡眠に関しては連続して4時間は取れるようになった。
思考力の弱まりや反射速度の鈍さは相変わらずだったけれど、少しは快方に向かっているのかなと無理やりに思い込んで、私は日々を淡々と過ごした。

「これが最後の雇用保険の給付になりますけれど……。一生懸命やってるのにお仕事見つからないわねぇ。でも、いつでもいらっしゃいね。本当、こればっかりは縁だから、そんなに気を落とさないでね」と、この3ヶ月間私の面倒を見てくれたキャリアカウンセラーのおばさんは言った。
おばさん、といっても、母よりは年下だと思うけれど、その化粧っ気のなさとパサパサの髪の毛はどう捉えても「おばさん」そのもので、軽く手ぐしでとかして束ねただけのような髪型がより一層彼女の貧乏くささを助長していた。
「はい、ありがとうございます。来週、民間のエージェントにも登録してみます」と、少し落ち込んだ雰囲気を作りながら返してみたものの、私はこの3ヶ月をとにかく休養するために使いたかったのだ。何一つ真面目に取り組んでいないのに傍目からは思惑通り「頑張って再就職に向けて動いているのになかなか結果が出ないかわいそうな女」という風にうつっていたらしく、自分の演技力を確信した。
そう、休養が必要だったのだ。傷を負った野生動物がひたすらねぐらで丸まって傷を癒すように、私も次のステップに進む前に気力と体力を回復する必要があったのだ。

雇用保険が切れるころにはだいぶ体力も付き、友人と日帰り旅行に行けるまでになった。
「ああ、人生って素晴らしいものなのかな……この調子でそろそろ就職も……」と思ったとたん、また次の試練が私を襲った。
住民税、年金、健康保険……。とにかく生きていくのには金がかかり、中でもこの住民税ってやつは曲者だった。
安月給でボロボロに命を削りながら働いていた私に、「社会人としてまっとうな」金額の貯蓄をする余裕などなく、雇用保険の切れたタイミングでドカンとまとまったお金が私の家から消えたのだ。
あ、やばい。
本当にやばいとき、人は笑うのだ。
「うふふ、どうしよう」と冷静を気取っているようで皮膚の下には狂気と焦燥が虫のようにわさわさと動き回っていた。

冷静さを欠いていた私は、風俗で働き始めることにした。
風俗ならできる気がしたのだ。
顔はまぁ、そこそこだし、身体もまぁ、そこそこだし、よくお化けみたいな女だって風俗で生活しているんだと思えばなんとかなるんじゃないかという気がしていた。
実際、大学時代も出会い系サイトで知り合った年上の(ていうかおじさんの)男の人と体の関係を持つ代わりに美味しい食事を奢ってもらったり、サマンサやケイトスペードのバッグを買ってもらったりしていたし、その延長線上でなんとか、という心づもりだった。

実際のところ私はあまり風俗で売れるタイプではなかったようだった。
肉感的な癒し系だったり、ロリータっぽかったり、そういう子が多い店の中で私は少し異質で、どちらかと言えば背が高くてすらっとした、少しきつめの目つきをしていたので、少しニーズと違ったのかもしれない。
よく調べずになんとなくよさそう、と思って入ってしまったことを後悔はすれど、別の店に飛ぶ気もなかった。
単に面倒くさかったし、別にこの道でプロになる気はさらさらなかったのだ。
生活に必要なだけ稼いで、気力がわいたら就職をするつもりだった。
ヒモの彼氏を飼ってるとか、パチンコが辞められないとか、母子家庭で昼間は工場で働いてるシングルマザーとか、なんだか関わったら自分まで穢れてしまいそうな気がして、同僚の女の子たちとはほとんど会話をしなかった。お前だって風俗で働いてるくせにどの口が言うか、という感じだが。
そもそもその頃から私はネットで見つけたライティングの業務委託の仕事を始めていて、テレビで芸能人が悪口を言ってただの、あのアイドルは整形疑惑があるだの、あることないことをネット掲示板の情報を頼りに記事化するという、下世話にもほどがある仕事を始めていたため、Wi-Fiの使える店外のカフェにいることが多かった。

予約が入れば店に戻りフェラチオや素股をし、チンポ1本につき1万ちょっとの報酬を貰って、またカフェに戻って原稿を書くという作業を繰り返すマシンと化していた。
ピンクでフリフリのガーリーな看板を出すうちの店で、私のような冷たく見える女は人気がなかったのでリピートもほとんどなく、原稿を書くのに集中するにはいい環境だった。

そうしてチンポに生活を支えてもらいながら下世話な記事を書き続け、とある出版社から「よかったらうちでもっとマシな記事を書いてみないか」という話を受けられるまでになった。
芸能人の悪口と浮気や不倫の噂をだらだら書き続けるだけの最低な5流ライターの私だったが、もう少しマシな、売れない着エロアイドルのインタビュー記事や、女性向けAVのレビュー記事を書けるくらいまでになった。クソみたいな文章でも、継続は力なり、とやらなのかもしれない。

気が付けばPCに向き合っている時間が1日のうちの大半を占め、チンポの支えがなくともなんとか食べていけるくらいまでにはなった。
何よりも、ほぼ1日カタカタ文章を書いて仕事をしているのが苦痛ではないことに、今この瞬間に気づいたのだ。
もう大丈夫なのかもしれない、そう確信した。

今日予約が入らなかったら、オーナーに辞めると言おう。
リピートがほとんどなかったから引き留められすらしないだろう。
とりあえずは、先週のインタビューのテープ起こしを済ませてしまおう。
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by innocentl | 2016-07-29 19:07 | フィクション | Trackback | Comments(0)

みきちゃん

男性にアロマエステと称した性感マッサージを施すメンズエステには色んな子がいた。

母子家庭のみきちゃん。
顔立ちは中の中。体型はぽっちゃり寄りの癒し系。
3人姉妹の真ん中で、20歳。
20歳だけど定時制高校を卒業したばかり。
お母さんは少し酒乱で、同情心を煽ってみきちゃんから経済的搾取をするタイプの毒親。
みきちゃんもお母さんや姉妹のことは嫌いじゃないから共依存している。
どちらかと言えば地味目の顔立ちだが、出会い系で会った男の人や受付のボーイと奔放にデートやセックスをしている。
ゆくゆくは大学か専門学校に進学したいと思っている。

大学生のゆみちゃん。
2留している、今年24歳。
顔も体もほぼ完璧なスキがないタイプ。ダンスをしているから引き締まったスレンダーな身体つき。
でも大学を2留してたり友達に借金してたり、この店でけっこう稼いでいる上位ランカーの割には経済的に余裕がなさそうな、お金や生活にはルーズなタイプ。
一人暮らしをしていて親から仕送りを貰っているみたいだけれど、そこまで干渉的じゃないから機能不全家族の可能性もあり。
食生活はかなり偏っていて、炭水化物と糖質ばかり摂取している。

バックグラウンド不明のりさちゃん。
四国から東京へ単身で渡ってきたということだけ話してくれた23歳。
家族のことを話したがらず、帰るつもりもないそうだからきっと家出同然で出てきたはず。
この店に来る前は友達や男の家を転々としていたそうだけど、今は事務所の一角にあるソファーをベッド代わりに寝泊まりしている。
週末は歌舞伎町のキャバクラで働いたり、そこで知り合った男とクラブで騒いだり、なんだか生き急いでる子。
日焼けした肌に肉感的な身体つきで、服装もメイクも夜の仕事をしている子特有の派手気味な雰囲気。

売れないあかりちゃん。
週3日勤務の24歳。
昼職は編集プロダクションでアシスタントをしたり、フリーランスでライティング業務をしているという。
他の子と顔を合わせたくないのか、ほとんど店外待機。
おそらく「あくまで副業」という意識を持っていて、他の嬢と同類に扱われたくないタイプ。
かろうじて繋がるWi-Fiと電源のある近くのカフェでいつもPCと向き合って難しそうな顔をしている。
顔は悪くないけれど、良くも悪くも個性がない顔立ちだからパネル指名で売れ残りがち。

サバ読みのゆかりさん。
40代だけれども30歳ということで務めている。
確実に30代のそれではないけれど、付いているお客さんは昔からの常連さんが多いから暗黙の了解なのかもしれない。
昼職ではたまに出張もあるらしく、よく嬢の待機部屋に観光地特有の名産を使用したとは名ばかりの何の変哲もないクッキーや饅頭を置いて帰る。
指名が入らなかった嬢を励ましたり、さすがは年の功といった対応が光る。

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by innocentl | 2016-06-03 15:00 | フィクション | Trackback | Comments(0)

フィクション

ホテルでのバイト中、PCでライティングの仕事ばかりしているのも飽きるので、ふとフィクションを書いてみたくなった。
載せるところもないので、ここに載せておく。
自分はフィクションを書くのは下手だな、と感じた。

「お茶を挽く」

風俗業界で客が一人もつかずに勤務時間が終わることを「お茶を挽く」という。

昔、客の付かない遊女は客に出すお茶を挽かされていたことに由来している。お茶を挽くという行為は時間がかかるため、客が一人もつかない暇な遊女でなければできなかったそうだ。

男を相手に身体を売るというある意味で究極の決断をしているのにもかかわらず、客がつかないというのは想像した以上に辛いものがある。商品棚に並んでいるという自覚と、消費者に手にとってもらえない商品であるという自覚。自分自身がデッドストックになり、だんだんと客の目につきづらい棚の下の方へ追いやられていくような感覚だ。

客からの予約の電話が鳴る度に「次こそは自分が選ばれるのではないか」と淡い期待を抱いたりもするのだが、大抵はすでに何人も予約をとっている人気者の追加客になる。

19時と20時、予約はいったから」と受付に伝えられ、おにぎり一つ食べるのがやっとなほどの忙しさの中、人気者の男娼たちはばたばたと動き回っている。

そんな彼らを尻目にぼんやりとくだらない恋愛短編集なんかを読んでいる自分を客観的に見ると、なんて惨めな存在なのだろうか。大して興味が有るわけでもない甘ったるい大人の片思いが散りばめられている安い表紙の短編集を、時間だけが有り余っているために2週も読んでいるのだ。時計を見ると1830分、雨が降っているために今日はこれから客足が伸びそうもないし、人気ナンバー1とナンバー2が揃っている今日に限って自分が選ばれるわけがない。あと何週このくだらない短編集を読み、あと何回タバコを吸いに店の前の通りまで出ればいいのだろうか。

「可愛い顔してるし、今はまだお客さんに知られてないだけだよ。何人か指名取れればすぐ人気者になれるよ。お客さんだって毎日ホームページをチェックしてるわけじゃないし、今はまだ辛抱の時期なのかもね。僕だって最初の何週間かはずっとお茶ばっかりだったよ。あ、お茶っていうのはお客さんがつかないまま帰るってことなんだけど」

待機室でそう話しかけてくれたのは、自分よりも3つか4つ年下の男だった。背が自分よりか幾分高く、茶髪に柔和な顔がアンバランスな人間だ。学生ではないが定職についているわけでもない彼は、男相手の男娼の仕事をしているが女性と付き合っているらしい。まだ若いんだから普通の仕事を探せばいいのに、なんでよりにもよってこんな仕事をしているのだろうかとか、なぜ女性とお付き合いをしているのに男相手に身体を売る仕事をわざわざ選んだのだろうかとか、色々と疑問はあったのだが深く尋ねるのも失礼な気がしたために「へぇ」といった間の抜けた返答をした記憶がある。彼からそんな励ましを受けていると、受付の男が「おい、そろそろ」と彼を客の元へ連れていくために呼びに来た。

「あ、はい。それじゃ、あまり気にし過ぎないようにね。すぐお客さんなんて来るよ」と言い残して、彼は待機室を後にした。

身体を売るというとだいぶショッキングなことのように感じられるが、ここに勤めているスタッフはみんな揃いも揃ってノーマルだ。こういう夜の仕事につく人は借金があって仕方なくやっていたり、単に頭がおかしかったりするだけの人がほとんどなのだという先入観があったが、いい意味でも悪い意味でもそれは覆された。生活水準を上げたいためだけに働いているサラリーマン、フリーランスでやっているために収入が不安定なデザイナー、ダンス留学のために200万貯めたら辞めると宣言しているフリーター、なんかおもしろいことをやりたかったからという理由だけで働いている大学生。待機室ではいつも話が絶えず、スタッフ同士の関係も良好なので驚いた。もっとも、出勤から退勤までこの待合室で過ごしているのは自分だけなので、彼らのほとんどは会話が盛り上がるまで話し込むことはなく、客の予約の時間が近づくとすっと会話を終了させて客の相手をする支度をする。不人気者の自分にも彼らはフラットに接してくれる代わりに、会話の終了権はいつでも向こうにある。仕事のある彼らは客の取れない僕の相手をしている暇はないのだ。

彼らはみな出勤をするとすでに入っている予約客のために準備をする。シャワーを浴び、下着を新しい物に穿き替え、うがいをする。それらの動作をまるで日常生活の一部かのように行う彼らを見て、いつも羨ましく、妬ましく思う。きっと今この瞬間に自分に予約が入ったとして、僕は彼らのようにスムーズに支度ができるだろうか。おそらくここで働くことが決まった日から一度も取り出されていない、鞄の中に入れっぱなしにしてある下着を取り出すのに手こずるだろうし、他のスタッフとうがいのタイミングがかち合ってしまっておろおろしてしまうだろう。うっすら想像してみても予約が入って慌てふためいている自分のその姿は愚鈍で、情けなく思える。予約が入るなら誰も待合室にいない時間帯がいいなどと、取れもしない予約のことを憂うのも馬鹿らしいが、本心からそう思う。

唯一僕の相手をしてくれていた茶髪の彼も去り、待合室にはまた退廃的な空気が流れだした。まるで空気がタバコの煙のように実体化をして、自分にのしかかってきているのではないかと感じる。読み飽きた短編小説を鞄にしまい、携帯電話を取り出した。思えば今日ここに出勤してからずっとチェックしていなかったので、かれこれ4時間近く携帯を開いていなかったことになる。液晶には親からの「誕生日おめでとう」というメッセージが光っていた。ああ、そうか、今日は僕の誕生日だったのだ。昼間は生活すらできないような低賃金で派遣労働をし、夜は男相手に身体を売る生活を続けて1ヶ月、忙しさに押し潰されて自分の誕生日すら忘れていた。24年前の今日、僕は生を受けたのだった。別段親しくしている友人や恋人もいないので祝ってもらえるようなこともないし、すっかり忘れていた。

人気者は昼の世界でも夜の世界でも人気者だ。一度うちの店の人気ナンバー2の男が大きな紙袋をいくつも抱えて出勤してきたことがあったため、なぜかと尋ねたことがある。彼は「大学の頃の友人達がサプライズでパーティをしてくれたからこんな大荷物になったのだ」と答えた。SNSでもお祝いのメッセージや画像が大量に送られてきていたらしく、待合室に置きっぱなしの彼の携帯電話がバイブレーションを止めることはなかった。それに引き換え僕はなんてしょっぱい人生を送っているのだろう。誕生日だというのにこんな店の待合室で無駄に時間を過ごし、親から一通メッセージが届いているだけだ。別に友人付き合いも得意ではないし、恋人も必要としていないので構わないのだが、こうすぐそばに人気者として生きている人がいると生きる世界が違うということをまざまざと見せつけられているような感じがして、まるで自分がまったく価値の無い、ユースレスな人間なのだという認めたくない実感が心の底にふつふつと沸き起こってしまう。例えるならば緑と紺の絵の具を混ぜ合わせたかのようなヘドロが、心臓からゆっくりゆっくりと流れだして腐臭を放っているようだ。そう考えるとどんどん自分が情けなくなってしまって、涙が出てきた。涙が出ていることを脳が認識すると、泣いているという事実が余計に情けなさを加速させ、さらに涙が止まらなくなってしまった。

泣き疲れて眠ってしまっていたのだろう。時計を見ると22時を回ったところだった。待合室のソファーで眠っていたために、起き上がろうとすると肩と腰の関節がばきばきと音を立てた。受付の男が起こしに来なかったことから考えると、僕は今日もお茶を挽いたらしい。ロッカーを見ると置いてあったはずのスタッフたちの鞄が数個なくなっており、何人かはすでに退勤をしているようだった。涙の跡をつけながら眠っている僕の姿を見たスタッフがいるのだと考えると気が重くなった。また次の出勤の時に心優しいスタッフの誰かが僕を上辺だけの言葉で励ましたり、お菓子の差し入れを持ってきて「仲間はずれじゃないからね」といったような押し付けがましい優しさをぶつけてきたりするのだろう。今から次の出勤が憂鬱だ。

このままここにいても今日は期待できないだろうと思い、帰り支度をした。ここへ来るときにすでに本降りだった雨は激しさを依然として弱めることなく振り続けている。帰る前に24時間営業の酒屋に行こう。今日はボジョレーヌーボーの解禁日だ。若いのでうまいわけはないのだが、誕生日であるということくらいしか購入の動機付けができないため、この時期に誕生日でよかったと思う。若く、苦くて酸っぱいボジョレーを飲んで、今日は眠ってしまおう。明日こそは誰かに見つけてもらえるだろうか。


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by innocentl | 2015-11-22 02:35 | フィクション | Trackback | Comments(0)