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LA LA LAND

※ネタバレあり

「ララランド」を観てきた。
さすがアカデミー賞総なめとだけあって、最高の映画だった。

個人的にはハッピーエンドだと思っていたけれど、観る人によって感想が全然違うのが面白い。
主人公の男女2人はお互い夢を追うために別れを選び、数年後に再会するという流れなのだけれども、この解釈が人によって分かれているようだ。

「好きなジャズだけを演奏する自分の店を持ちたい」セブと、「女優になりたい」ミアが偶然出会って恋に落ちる。
2人は互いを刺激し合って、セブはバンドのツアーで稼ぐようになり、ミアもオーディションを通過するなど夢に近づいていく。
セブは数年にわたるツアーに出かけねばならず、ミアも通過したオーディションの撮影をパリで行う関係上、2人の仲はこじれていき別れを選択する。
数年後、女優として成功したミアは別の男性と結婚し子どもも授かる。
偶然夫と立ち寄ったジャズクラブにはセブの名前を冠しており、ステージで演奏しているセブの姿を見つめるミア。
互いに目配せして微笑み、そこで映画は終わる。

互いに夢を叶えたのだからハッピーエンドだと思う。
何かを手に入れるには何かを代償にしなければならないのは当然のことで、セブとミアは「愛」を「夢」と両立できなかったから別れを選んだだけの話だ。
しかし2人が「女優になる」「自分の店を持つ」夢を叶えるためには互いの存在が不可欠であり、今後2人が仕事でキャリアを積んでいくにつれて夢を叶えることができたのは過去の恋人のおかげだと感謝し続けるのだろうと思う。
最高じゃないか、と思う。

別れを選択したけれども、一生涯思い続ける相手が2人にはいる。
仕事で成功していくたびに互いのことを思い出すことができる。
最高のハッピーエンドだと思う。

もし自分がこの映画を10代の頃に観ていたとしたら、2人の選択を「悲恋」だと捉えていただろうし、ラストシーンは大変にショッキングなものに映っていたと思う。
大人になると色々なことを諦めなければ新しいものを掴めないということがわかってくるし、自分の限界というものも見えてくる。
全能感に溢れていた10代の頃だったら「夢も叶えて、2人も結ばれて」という結末が当然だと思っていただろうけれど、自身が成長したからかラストシーンはすんなり受け入れることができた。
むしろ当然の結末だとも思う。

「セブはミアのことをずっと思い続けていたのに、他の男と結婚してミアはなんて薄情なんだ」という意見も見かけた。
でもセブだって恋人の1人や2人できていたのではないかと思う。
少なくとも映画内では描写されていないので憶測になってしまうけれど、互いに夢を叶えるのと同時に現実を見る、地に足ついた大人になったのではないだろうかと思う。
ラストシーンの走馬燈はセブがずっとミアのことを思い続けていた気持ちを表現したのではなく、たまたま再会した昔の恋人の姿を見て思い出を反芻(そしてもしあのとき別れていなかったら、というもう一つの可能性に思いを馳せた)しただけなのでは、と思った。

「ハッピーエンドだ」という人もいれば、「切なくて抉られる」という人もいる。
その人がどういう人生を送ってきたか、夢を叶えたのか破れたのか、どんな恋愛経験をしてきたかで解釈の変わる映画だと思った。

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by innocentl | 2017-03-06 19:28 | 日常 | Trackback | Comments(0)

確定申告

昨年からフリーランスとしての所得もそれなりになったので、生まれて初めて確定申告をしてきた。
「ある一定以上の所得があればしなければならない」というのは知っていたけれど、具体的に何をどうすればいいのか知らない状況のまま会場へ向かった。
一応年金の支払い証明的なハガキと、健康保険の金額は控えていったけれど、経費は会社持ちなので領収書の類などは持たずに行った。

入口が2つに分けられており、それぞれ会社員と個人事業主のレーンとなっていた。
「初めてなんでよくわからないんですけど」と入口の女性に伝えると、「会社に勤められていますか?」と質問された。
「いえ、フリーランスで」と答えると個人事業主のレーンを進むように言われたが、会社員のレーンに比べると待っている人が少なくスムーズに進むことができた。

進んだ先にいたスタッフに支払調書と年金のハガキ、去年1年の間に支払った健康保険料を伝えると、その人は何やら手元の書類に数字を書き込んでいった。
会社から回してもらった以外の仕事で支払調書をもらえていなかったため、そこで一悶着あったものの、なんとか終えることができた。

そしてどうやら収支報告書というものを作らなければいけないらしく、作成コーナーに通された。
そこでもスタッフが記入を手伝ってくれたのでなんとか書き上げることができた。
自分の場合経費計算や不動産所得などの難しい要素はなかったので、単純に所得と年金、保険料の金額などを書いただけだった。

書きあがるとPCでの登録コーナーに進み、そこでもスタッフの指示に従って作成した収支報告書などの情報を入力していった。
一通り入力が終わると還付される税金が表示されたのだが、「こんなに!」というくらいの金額が映されていた。

どうせ手間がかかるわりに大して還付されないんだろうなと思っていたが、想像の3倍くらいは返ってくるようだ。
「ラッキー」と思ったのと同時に、「そんなにどんぶり勘定で余分に毎月税金引かれてるんじゃ、そりゃあ生活も厳しくなるわけだわ」とも感じた。

確定申告の受け付けが始まってすぐにしたので、来月半ばには還付金が振り込まれる。
今は古着屋で服を買ったり、色あせたレザージャケットを染め直しに出したり、旅行資金にしたりといろいろと物欲を満たす行動をしている。
本来なら有事に備えて貯蓄しておくべきだと思うが、去年一年間はいろいろと我慢する年だったし、これくらい許されるかなと思って少し贅沢させてもらっている。

ここでまとまった金額が入ったことによって月々の勘定も調整できるし、毎月の貯蓄をもっと計画的に行えるように考え直そう、と思った。

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by innocentl | 2017-02-28 17:38 | 日常 | Trackback | Comments(0)

前に住んでいた街

一人暮らしをしていた横浜の街を歩く機会があった。
いい思い出もないし憎んでいる人も多いため、前職を辞めてから2年近く一切横浜には立ち寄らなかった。

JR横浜駅を降りて川沿いに歩き、前暮らしていたマンションを目指した。
人がごった返している駅前を歩くのが嫌いだったので、わざと人通りの少ないこの道を通っていたことを思い出しながら道を進んだ。
横浜は坂が多い。長らく関東平野特有の真っ平らな地方都市で過ごしてきた人間からすると高低差が激しくて位置関係がうまく把握できない。

高台にのぼると、みなとみらいのビル群や観覧車が見えてきた。
住んでいたときはいろいろなことが嫌になっていたので街すら憎んでいたが、今見ればけっこうきれいな街なんじゃないかとも感じた。
休日の昼間ということもあり、高台の住宅街は人の気配がなくしんとした静寂が広がっていた。

一人暮らしをしていたときによく通っていた商店街をぐるりと歩いてみたが、休日だったのでほとんどの商店が閉じていた。
新しいマンションが数棟建っているほかは2年前と全く変わりなく、このままあのマンションの一室に帰ってごろんと床に寝転ぶ姿さえリアリティをもってイメージできた。
部屋に入ったときのひんやりとした部屋の空気、粗めのカーペットの肌触り、少し離れた国道の車の音などを思い起こし、確かにここで暮らしていたのだと改めて感じた。

この街で生きていたとき、いい思い出だってあったじゃないか。
彼氏が遊びに来たときはポップアップバーで売っていたモヒートを飲みながら海沿いを歩いた。
友人と安い居酒屋で語り明かしたことだってあるし、うまいラーメン屋だって見つけた。

一人暮らしを始めてから、生きていくうえでいろいろなことを学んだのだってこの街だった。
生きていく力をこの街で養った。
残念ながら悪意ある人々に囲まれてきれいな会社の辞め方をしなかったけれど、生活面で憎むべきところは数えるほどしかなかったのかもしれない。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものだと思う。

トラウマの克服とまで大げさなことを言うつもりはないが、少し心の中につかえていたものは取れたような気がする。
かとってこの街に今後来る機会があるかというと全くそうではないが、ここに置いてきてしまったきれいな思い出だけは拾って帰ろうという心づもりでいよう。

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by innocentl | 2017-02-21 18:25 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ないものねだり


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by innocentl | 2017-02-21 17:56 | 日常 | Trackback | Comments(0)

生きているうちは

正月、母から年賀状が届いていた。
ありがちなテンプレートが印刷された年賀状に、母の好きなキャラクターのシールが小さく貼ってあり、「毎日健康に」といったような内容が一言だけ書いてあった。

「息子はいなかったものだと思って生活してほしい」と、以前手紙で伝えたつもりなのにな、と肩を落とした。
子どもはいないし、そもそも作ることができない身体なので、親の気持ちは僕にはわからない。
これは彼女なりの贖罪なのか、後悔の表れなのか。

いずれにしても覆水盆に返らずというか、壊れてしまったものはもう二度と修復できないし、するつもりもない。
そもそもの話になってしまうが、最初から母も母で「理想の家庭」を高く掲げすぎて無理して理想を演じていただけかもしれないし、その「理想の家庭劇場」の舞台裏を見てしまった僕が勝手にショックを受け、傷ついて家を飛び出しただけなのかもしれない。

家庭のことはそんなに話さないが、どうしても話さなければいけないときには「親はいない、生きているのか死んでいるのかもわからない」と伝えて過ごしている。
世の中「家族は無償の愛で繋がっている。困ったときに助け合えるのが家族」という宗教を信じて過ごしている人が想像以上に大多数を占めているので、自分のような無宗教者はアウトローとして扱われ、腫れもの扱いをされる。
そのおかげで深入りされずに済んでいるところだけは感謝すべきことであるけれども。

親も人間なので完璧である必要はないし、人として間違ったことを犯してしまうことだってある。
そうではあるけれども、当時メンタルも充分に回復していないどん底の状況で拒絶をされたという事実は深く傷つけられたことであったし、到底「完璧な人間なんていないよね。はい、喧嘩両成敗」で済ませるものではない。
こういう時、相手が他人だったら関係を切って終わりにしていたのが元来の自分なので、それに従って関係を清算したまでだという話だ。

親と縁を切って生きるというのは想像以上に気楽で、自由で、「ようやく自分の人生を生き始めることができたな」と清々しい気持ちなものだ。
今まで自分の中で無意識にブレーキをかけていた部分や、(意識下なのか無意識下なのか)勝手に制限をかけていたものが取り払われた気分だ。
その分孤独であるし、自分の保護者は自分なので責任を負わなければいけないものも多いけれど、得たもののほうが多い。

時折悲しみや辛い気持ち、怒りがフラッシュバックすることもあるけれど、これも別に悪いことではない。
そうした心の傷も含めて「自分」だし、折り合いをつけて上手に付き合っていくしかない。

少しずつだけれども、自分の足で歩き始められている。
今度親から手紙が届いたら、もう一度「息子は死んだものだと思え」と伝えるつもりだ。
子を育てるのは親の義務だし、ある程度まで育ててもらった恩義はあれどそれに囚われる必要はない。
薄情と言われようがその後のことは知ったことではないので、いつまでも「死んだ」息子の亡霊に囚われていないで親にも親の人生を生きてほしいと思う。

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by innocentl | 2017-02-14 18:13 | 日常 | Trackback | Comments(0)

マウンティング

すっかり一般的になった「マウンティング」という言葉。
恋人の有無や容姿、月収や交友関係などさまざまなことにおいて「自分の方が上」だということを誇示したい人がする、意識的・無意識的な格付け(や、それに準ずる言動)を意味している。

「クリスマス一人なんてかわいそうだね。私だったら考えられない」とでもSNSで発言すれば、「あいつマウンティングうぜぇな。彼氏がいるってことがそんなに偉いんですか」とヘイトを生む。

自分自身、マウンティングをかけてくる人や好戦的な人は苦手だ。
そういう人たちは良くも悪くも野性的というか、動物同士の力関係をはかる行為の「マウンティング」という名が示すように、たいていいつもギラギラと餓えた目つきをしているので怖いなと感じている。
向こうも向こうで、自分のようにダウナーでカースト外の人間はハナから眼中にないようで、面と向かってマウンティングをかけられたことは少ないのだけれども、SNSには全方位にマウンティングをかけているクソババア(注:ゲイの言う『ババア』はゲイの男性のこと)が多くいる。

そういう人たちは「自分の考える基準の中で」少しでも人より優位に立っていることに喜びを見出す宗教を信仰しているだけなので、そっとしておくしかないと思う。
学歴が一番大事だと考えている人は、高卒で年800万稼ぐ人よりも院卒のニートの方が素晴らしいと考えているだろうし、恋人がいることが大事なことと考えている人は3ヶ月単位で出会いと別れを繰り返している人の方が、仕事や友人関係に重きを置いてあえて独り身でいる人よりも素晴らしいと考えているだろう。
僕も今までの人生観のバイアスが邪魔をしてまるで「高卒の高所得者」や「あえて独り身を貫く人」の方が尊いかのような書き方をしてしまったが、これこそ宗教なのでどちらが良いか悪いかなどはない。外野がとやかく言ったり、是正してやろうと躍起になる問題ではない。彼らはそういう信仰なのだ、というだけだ。

そんな話はさておき、世の中はマウンティングに過剰になりすぎていると思う。
「ボーナス出た」と誰かがつぶやけば、「ボーナス出ない人だっているのに自慢かよ」とヘイトを生む。
「クリスマスのために食材買ってきた」と誰かがつぶやけば、「恋人いますアピールかよ」とヘイトを生む。

あえてマウンティングをかける人はそりゃあ思慮が足りない気もしないでもないが、あくまで日常会話の一つとして発言したことが揚げ足取りのように「マウンティング」扱いされるのは言葉狩りなんじゃないかとも思う。
人は全員違う人生を生きていて立場も違うので、その人の「日常」が、他の誰かにとってはどうあがいても手に入らない羨望の対象であるかもしれない。だが、それは誰だって一緒だと思う。
自分だって「低所得のフリーランスで毎日カツカツだよ」と思って生活しているけれど、会社のしがらみに悩む人からは「でも嫌なクライアントの仕事は断れるんでしょ。羨ましい」となるかもしれない。
逆に自分は会社員の安定した給与が今となっては羨ましいなと思うのだけれども。

余裕がないときはギスギスすると思う。
自分だって恋人がいないときにSNSでデートの報告をしてくる人を僻んでしまった時期もあるし、端的に「こいつムカつく奴だな」と思った人だっている。
それはそれで仕方のないことだと思うし、仲間内で愚痴や悪口を言い合うことになるのも仕方ないと思う。
でも、SNSで攻撃をするならせめて、その人は客観的に見て「『意識的に』『攻撃として』マウンティングをしてきているのか」を考えてから反応した方が、きっと他人から見られたときに頭が悪い人にはうつらないと思う。
人を攻撃する目的でマウンティングをかけているのならば反撃される可能性もなきにしもあらずだが、日常会話として自分の立場を語っているだけの人を攻撃するのは、自分の価値を下げて人を遠ざけるだけだと思った。

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by innocentl | 2016-12-22 17:44 | 日常 | Trackback | Comments(0)

幸せの基準

「誰かの役に立ちたい」「誰かのために何かできることが幸せ」というのはとても美しいようだけれど、幸せの基準を他人にフォーカスしてしまうと確実に崩壊する。
どんなに身を粉にして尽くしても、結果を決めるのは他人である以上骨折り損で終わってしまうことだってある。
そうすると「こんなにしてやったのに」と憤ったり、悲しくなったり、自分が打ちのめされてしまう。

自分が心身ともに健康的に生きながらえるためには、幸せの基準は自分自身にフォーカスしてあげないといけないと思う。
というのも、ここ数年で自分は「自分を甘やかしてあげられるのは自分しかいないしな」と思うようにしていて、なるべく本能に忠実に生きようと心掛けている。
どれだけ努力したところで前の会社では評価もされず、今までさんざん「いい子」で振る舞ってやった家族にも退職をきっかけに邪険に扱われるようになり、「人のために生きるのなんて何もいいことねぇな」と思ってしまったからだ。
なまじ優等生として社会に出るまで通ってきてしまったので、「人からの期待に応えること」が自分の喜びであると内面化してしまったのだ。

自分が本当にやりたいことをやったり、本当に好きな人と一緒にいたりすると、文句を言われてきた。
その都度「これはいけないことなのだ。いけないことをしてしまって周囲をがっかりさせてしまったかもしれない」と自己叱責をしたものだが、人なんて何もしていなくても嫌われることもあれば、どんなに傍若無人に振る舞っても見捨てないでいてくれる人もいるもの。
つまり人からの評価なんて気にするだけ無駄で、だったらやりたいことを遠慮なく選ぶべきなのだ。

天涯孤独になったからこそ、日本社会にありがちな「世間様とウチ」のような呪縛からは解き放たれ、そこそこ自由に生活することができている。
かといって「お前らも家族を捨ててやりたいことをやってみろ」と言うわけではない。
会社勤めをしていればそこでの人間関係のしがらみもあるだろうし、どんなに仲のいい家族でもすれ違うことはあるだろう。
切っても切れない関係がある中で、「人のために生きる」のに固執するのを止めた方が生きやすくなるよ、というだけの話だ。

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by innocentl | 2016-12-22 17:06 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ホモランドセルに思う

先日、とあるテレビ番組で「ホモランドセル」が紹介された。
ホモランドセルとはゲイの間で流行している(と言われている)、THE NORTH FACE製の四角いシルエットが特徴的なバックパックのことだ。
数年前からなぜかゲイの間で流行しているので、「ホモのランドセルみたいなものなんじゃない」という自虐的ともとれる呼称が一部でされていた。

番組では「ゲイの間で最近流行しているアイテム」という表現で紹介されたそうだ。
それに対して「ゲイに限らず使われているアイテムなので、こんな放送をしたら明日学校でいじめられてしまう中高生も出てくるんじゃないか」「メディアでのアウティング事例なのではないか」とツイッターでは一部ユーザーが騒いでいたのを拝見した。

ここではこの際アウティングがどうとかメディアリテラシーがどうとかそういった話は置いておいて、個人的な「ホモランドセル」に対する思いを書こうと思う。

一番最初にNORTH FACEのカバンを見かけたときは、アウトドアファッションが好きな人たちが身に着けていたように思う。
ほどなくしてゲイの中でも身に着ける人が増えてきたと思うが、今から7~8年前くらいだとやはりアウトドアファッションや若干スケートパンクっぽい、ストリートなファッションをしている人が身に着けだしていたような気がする。
アウトドアな文脈でのファッションはさておき、ストリートなテイストにわりと大き目なバックパックを背負うことは「ハズし」になり、活発な印象ややんちゃなイメージを演出するために使われていたように思う。

ほどなくすると猫も杓子もこのバックパックを身に着けるようになるようになったが、流行すると「その合わせ方間違ってんじゃね?」というような人たちも増えてきた。
アイテムが先行してしまっているので全身のファッションに気を使うわけでもなく、「サイズ感のおかしいシャツに、流行ではない丈のパンツにバックパックを合わせました」というような格好というか、語弊を恐れずに言えば「ファッションに何の興味もないオタク気質のゲイがとりあえず『アイテムが』かわいいと思ってNORTH FACE買っちゃいました」的な人たちが増えてきたように思う。
もともとガチなアウトドアファッション以外に合わせるためにはハズしとして使われてきたアイテムなので、全身モサいところにそれをやってしまうと「遠足の小学生かな?」というような出で立ちになってしまう。
全身ハズしていたらそれはダサい。

別に自分もファッションに気を使うほうではないが、年相応であることやサイズ感だけは身だしなみとして意識するようにしているので、そういった人たちを見ると「なんだかなぁ」と思ってしまう。
パサパサの金髪にドン・キホーテで買ったような服を着ているけれど、カバンだけはシャネルのヤンキー女のようだな、と思ってしまう。

アイテムそのものに惹かれて「いい!」と思って購入に至ることはもちろん誰にだってあると思うけれど、最低限の身だしなみをしてから楽しむほうがもっと本人もアイテムも魅力的に見えるだろうにもったいないな、とは思う。

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by innocentl | 2016-12-10 10:44 | 日常 | Trackback | Comments(0)

昔の思い出

「息子が小さかった頃、清掃車が家の近くに来ると息子と外に出て眺めていた」と話してるおばさんを見て、家族と縁を切って暮らすことを選んだのは自分なのに、なぜか少し切なくなってしまった。
母はたまには自分が子どもだった頃のことを思い出したりもするのだろうか。

まだ小さかった頃は確かに親に愛されていた記憶があるけれども、思春期を迎えて自我が確立されると疎ましく思われていたような気がする。
あるときから意識して親に気に入られるように行動し始めるようになって、表面上はまた仲のいい家族のようになったっけ。

まぁ、もう全て終わったことだし、感傷に浸るだけ時間と精神力の無駄なんだけれども。
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by innocentl | 2016-10-19 09:01 | 日常 | Trackback | Comments(0)

ネズミをやる

週に一度、飼っている蛇にネズミをやる。
冷凍庫に入っているピンクマウスを取り出し、人肌より少し熱い程度に温めたお湯につけて解凍する。
しばらくしてネズミが柔らかくなったらしっぽをつまむようにして菜ばしで掴み、蛇のケージに持っていく。

ケージの中にネズミを入れると、想像以上の素早さと力強さを発揮して、あっという間にネズミは蛇に奪われてしまう。
身体をばねのように使って、うまいことネズミに噛みついていく。

エサを飲み込むときに蛇は顎を外すので、ラッパのように大きく開いた口の中にネズミがゆっくりと頭から飲み込まれていく。
飲み込み終わって口を閉じても、お腹(蛇のどこからどこまでが腹なのかはわからないが)がふくれているので、「あ、まだあそこにネズミが入っているんだな」というのが見てわかる。

「あんなお腹になってるのにまだ欲しがってるよ」と、蛇を見て彼氏が笑う。
蛇はケージの中からもの欲しそうに外を眺めて動き回っている。
「ツチノコみたいだね」と、その様子を見て僕も言う。

それだけの日常。

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by innocentl | 2016-10-07 16:08 | 日常 | Trackback | Comments(0)