理想的な親と足枷

頑張らなければ褒めてもらえなかった。
ある意味で正しい子育てだと思う。宿題をやれば褒めてもらえる、お手伝いをすれば褒めてもらえる、成績が上がれば褒めてもらえる。
今でも気がかりなのが、ありのままの姿を認めてもらえなかったことだと思う。
自身がセクシャルマイノリティであることにも関連するのかもしれないが、「存在するだけでかけがえのない人なのだ」という言葉を知ったのはだいぶ大人になってからだった。
親に振り向いてもらうために嘘の自分を演じ続けていた。
好きでもないスポーツ教室に無理やり通わされ続けていたが、本当はダンスやテニスを習いたかったと言えなかった。
絵や音楽に興味があったが「男は運動部以外の選択肢はない」という家庭だったので、仕方なく部活も運動部に入った。

成績面や運動など自分より劣った人が親と仲睦まじく過ごしている様子を見てよく不思議に感じた。
なぜ成績もよくないのに、運動もできないのに、親と仲良く過ごせるのだろうかと、本心から疑問に思っていた。
親にとって子はどんなことがあろうともかけがえのない存在なのだということが世の中のメインストリームだということを知ったとき、にわかには信じられなかった。
「そうは言うけれど出来のいい子供のほうが愛されるに決まっている」と信じたかったのかもしれない。

周りは「頑張っている僕」の姿を評価しているだけで、本来兼ね備えている性質は全くもって愛されるに値しないものであったのかもしれない。

友人と遊ぶことは悪いことではないと知ったのも衝撃だった。
友人と遊ぶと親はいい顔をしなかったため、中学に入ってからずっと友人たちと遊びに行くことを控えるようになった。別に親も友人と遊ばないように強制をしていたわけではないのだが、やんわりとした束縛がそこにはあった。

親に気に入られるためだけに生きてきた人間は上昇志向が高いという論文を読んだことがある。
ただ、その上昇志向とはポジティブなものでは決してなく、自らに高い目標を課し成功したら「失敗しなくてよかった」とホッとするためだけのものであるそうだ。
失敗したら当然自責、かといって頑張ることを辞めるのは「評価されない行為である」と思い込みさらに自責という、とにかく負のスパイラルだという。
その手の子供を育て上げる親は子が自殺することすらある意味美談にするという。
「頑張り屋さんだった、とてもいい子だった。そんないい子を産み育て、自殺で亡くした私はかわいそうだ」と涙する。
社会的な文脈の中ではそういう母親はおかしくもない、むしろ正常ですらあるように感じられるが、そんな親を持った当事者としてはその「あなたの親は立派であるという社会的圧力」に反抗できず、何がおかしいのかすら自覚できない。ただただ自分を責めるだけの方向へ向かってしまう。
社会を巻き込んだやんわりとした、あたたかい狂気だ。

自分の人生を生きるために、親というものは切り捨てて生きていかなければならないのかもしれない。
足枷を、首輪を外して生きていかなければならない。
いつまでも親の束縛や陰に怯えて生きているなんて、そんなものは人間の生活とは言えない。
もういい歳なのだ。いつまでも親のせいにもしていられない。

名前を変えたい。
戸籍を抜いて、名前も変えて、全く別の人間として生きていきたい。
もうあの家庭に自分は所属していないし、戻る場所もない。
帰りたくもない。

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by innocentl | 2016-02-04 20:48 | 日常 | Trackback | Comments(0)
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