落し物

街を歩いていたら、自分より数歩前を歩いていた老婆が何かを落とした。
彼女はそれに気づかずに歩き続け、とうとう僕が彼女の落とした物の目の前にぶつかる形になってしまった。
ここで避けるのも不自然だし、その場にいた数人は彼女が何かを落としたのを目撃しているわけだから、無視して拾わないでいるのも周りに対して気が引けたので、それを拾い上げた。

それはブローチなんだかコサージュなんだか、若者の僕には区別がつかない類の装飾品だった。

日傘を差して歩いている彼女のそばへ駆け寄り、普段よりも少しだけ高い声で「すみません」と、声をかけた。
振り返った彼女はきちんと化粧を施した上品そうな印象の人で、僕の顔を見てきょとんとしていたが、間髪入れずに僕はその落し物を差し出し「落としましたよ」と、簡潔に伝えた。

言ってみれば人として当然のことをしたまでであるので、恩着せがましくその場に佇むのも失礼な気がして、そそくさと半身を返して立ち去ろうとしたとき、彼女はゆっくりと「これ、大切な物だったの。本当にありがとう」と僕の背中に投げかけてきた。

そう言われた瞬間に僕は反射的に振り返り、くしゃくしゃの下手くそな笑顔を作って「いえ」とだけ返してその場を去った。

なぜか胸が熱くなり、こめかみあたりに熱を持ち、少しだけ涙腺が緩んだ。
人として普通のことをしただけなのに、周囲の目を気にして拾っただけなのに、人から感謝されてしまった。

思えば前の仕事をしているとき、人から「ありがとう」と言われることは少なかったな、と思った。
環境のせいにした言い方になるので言い訳がましくなってしまうが、ミスマッチの配属でわけがわからない状態のまま最善を尽くすのには限界があり、自分なりに工夫して仕事をするとしても結局は「いらんことしい」になってしまう自分に嫌気が差していた。
そうなると、本当に周囲の役に立つようなことを成し遂げられたときでも、周囲は感謝の言葉をかけてこなくなる。

大小に関わらず仕事で達成感を得たことなど、一度もなかった。
事実上長からは「この程度の仕事しかできないのならお前の替えなどいくらでもいる」と告げられ、会計部門からの異動を希望したこともあるとはいえ前部署で厄介払いを受ける形で異動をし、次の部署でもやはり不信感からか情熱を持って働くことができなかった。
一度会社に抱いた不信感は、異動をしたとはいえそうそう簡単に打ち消せるものではないのだ。

物を拾ってあげた、たったそれだけの行為に対し「ありがとう」と人から言われて、こんなに涙が出そうになるなんて、感謝の言葉に飢えていたのだろうか。

ありがとう、ごめんなさい、この二つは言葉にしないと伝わらないと、小さい頃から教わっていたはずなのに、忘れかけていたのかもしれない。
今後、僕も自分のことを必要としてくれる人に対しては感謝の言葉をきちんと形にして伝えないといけないな、と思わせる出来事であった。
考えや想いを言葉にするのは僕の得意分野のはずじゃないか。
忘れてはいけない。

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by innocentl | 2015-08-15 19:38 | 日常 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2015-08-16 22:25 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by innocentl at 2015-08-20 20:36
さとやさん

ありがとうございます。
会社に関しては、自分の会社も部署によってはいい会社なんだと思います。
ただ、うちの部署に人を育てる余裕がなかったことと、僕自身の今後やりたいこととのギャップなど色々あって、こういう結果になったのだと思います。

だからと言って会社を許せないですけれど、頭では理解はしています。
この経験を糧にして生きていきたいです。


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