執着心

生きることに執着しない、というのを「死にたがり」と解釈されるのはおかしいのではないだろうか。

前にも書いたと思うが、生きることに執着していないのは自分の価値観である。
それこそ昔は「セックスとやらを一度経験してみたい」「恋人を作ってデートに行ったり、記念日の贈り物を考えたりに時間を使いたい」「自分でしっかりお金を稼いで一人暮らしをしてみたい」などと、やりたいことがあったので生きるモチベーションも保たれていたのだが、今となっては過去にやりたかったこと全てを経験してしまった。
もはや長期スパンで成し遂げたいこと、やりたいことリストがなくなってしまったのだ。

なので、別にいつ死んでしまってもいいと思っている。
「今すぐに死にたい」と思っているわけでは決してなく、「別にいつ死んでしまっても良いと思っているし、どうせ死が訪れるのであればなるべく早い方がいい」と思っているだけである。

自分のようなゲイの人間には結婚して子供を作って、孫ができて……というような未来は訪れない。
なので、自分の遺伝子を引き継ぐ守るべき存在によって生かされるという感覚を一生理解することはできない。
死ぬまで自分で自分のゼンマイを巻き続けるしかないのである。
ある程度の年齢になって結婚し、子供ができ、「家族」によってゼンマイを巻かれたり、ゼンマイを巻いてあげたり、というような人生を送ることはできないのである。

死ぬまで、独り。
独りで生きて、独りで死ななければならないのである。

日本でも同性婚を許容するような風潮が最近はあるが、まず僕が生きている間に法律が整備されることも、それに伴って社会が同性愛者を許容する雰囲気が出来上がることも期待できないであろう。
日本に生まれたゲイ、という時点で、死ぬまで一人で戦い続けなければならないのである。

結婚しない(できない)若者が増えているとは言うが、その気になれば結婚し、子どもを作れる異性愛者とは違うのである。
どんなに絶望的な環境にある人でも、偶然が続けば「結婚して子供が作れる」チャンスくらいは発生するのであるのだから、異性愛者の抱える「結婚できない・しない」という悩みとは違うのである。
生まれたときから孤独に死ぬことを運命づけられており、それが長い人生の中で覆るチャンスすら訪れない我々とは、やはり根本的に抱えている悩みの重さが違うと思う。

異性愛者のそれが結婚しない「選択」であるのに対し、我々のそれは結婚しない「運命」であるのだ。


話がずれたが、つまり結婚や出産といった一大イベントをまだ後に控えている同世代の異性愛者と違って、我々は今後同じことを繰り返して生きるだけの消化試合のような人生が始まってしまったのである。
恋してセックスして別れて。その繰り返しである。

自分の命を削りながら後世に名を馳せるような仕事をしているわけでも、全世界に賞賛される芸術品を生み出しているわけでもない、一サラリーマンの僕に、今後強く「生きたい」と思わせるモチベーションを生み出すような出来事は発生しないのである。

なので、「いつ死んでもいい。なるべく早い方がいい。この世に未練はない」と思っているのである。


というような話をしたら、数年前から仲良くしてくれていた友人の一人の癇に障ってしまったらしく、「お前は間違っている」と言われて、一切の連絡手段を絶たれてしまった。
僕は間違っているのだろうか。

価値観は人それぞれであると思う。

例えば、ソーシャルゲームに手を出さない僕は「時間がもったいないからゲームとかしない」と感じているためにそう言っているが、他人からすれば「わざわざ時間を削ってまで、行きたくもないジムに行くあなたっておかしいんじゃない?」ということになってしまう。
変な例えになってしまったが、僕が言いたいのは価値観に「正しい」も「間違っている」もないので、そんな言論をすること自体不毛なのではないか、ということである。

まぁ、自分が間違っていたとしても、すでに自分の人格形成の中にこの生に対する虚無感のようなものは強烈にインプットされてしまっているわけであるし、今更「どんな時でも明日への希望を忘れちゃいけないよね!ハッピー!すべてのことに感謝!」というような生き方もできないのである。

人はいずれ死ぬのだ。
やり残したことはないし、死が訪れる日まで粛々と生きよう。
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by innocentl | 2014-07-27 16:16 | 日常 | Trackback | Comments(0)
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